柴又・帝釈天

(経栄山題経寺
きょうえいざんだいきょうじ

開山は江戸時代初期の寛永6年(1629)だから、すでに370年以上の歴史を有する。
帝釈天と呼ばれるいわれは、日蓮上人が刻んだと伝えられる板本尊の一面に、
右手に剣を持ち、左手を開いた怒りの相をあらわした帝釈天が彫られていることによる。

この板本尊は長年行方不明だったが、安永8年本堂再建の際に発見され、
この日が庚申の日だったため、以来、庚申の日を縁日の日に決めたと言われていまる。

 建物を見ると、柴又駅からここを訪れる観光客が必ずくぐる二天門は、明治29年(1896)の完成。

境内に入ると、寅さんが産湯に使ったことになっている御神水があり、
その右手に本堂の祖師堂、左手に帝釈堂が、祖師堂の奥に大客殿が
明治中期から昭和初期にかけて建て直され、年代的にはそう古いものではないが
祖師堂と帝釈堂が総欅づくり、大客殿が檜づくりの重厚な構えを見せている。

ことに大客殿頂経の間には、直径が30センチほどもある南天の床柱があり、
これは日本一だという。

 また帝釈堂内陣外壁の三面には、法華経の説話から題材を選び、
完成が大正末期から昭和9年までかかったという10枚の胴羽目彫刻が、まさに彫刻ギャラリーといった趣で見られる。

彫刻を施した1枚の板の大きさは、タテ1.27メートル、ヨコ2.27メートル、
厚さ20センチの欅材という見事なもの。
葛飾区の登録有形民俗文化財になっている絵馬も展示されている


















日蓮宗 大本山 池上本門寺

池上本門寺は、日蓮聖人が今から約七百十数年前の弘安5年(1282)10月13日辰の刻(午前8時頃)、
61歳で入滅(臨終)された霊跡です。

 日蓮聖人は、弘安5年9月8日9年間棲みなれた身延山に別れを告げ、
病気療養のため常陸の湯に向かわれ、その途中、武蔵国池上(現在の東京都大田区池上)の
郷主・池上宗仲公の館で亡くなられました。

 長栄山本門寺という名前の由来は、「法華経の道場として長く栄えるように」という祈りを込めて
日蓮聖人が名付けられたものです。

そして大檀越の池上宗仲公が、日蓮聖人御入滅の後、
法華経の字数(69,384)に合わせて約7万坪の寺域を寄進され、
お寺の礎が築かれましたので、以来「池上本門寺」と呼びならわされています





此経難持坂(シキョウナンジザカ)
熱心な法華信者で築城家としても有名な、加藤清正公の築造寄進になる。

同公は、慈母の第七回忌にあたる慶長11年(1606)、その追善供養のため、
祖師堂を建立寄進し、併せて寺域も整備しているので、その折の築造と考えられる。
第14世日詔聖人のときである。

第22世日玄聖人代の元禄年間(1688−1704)に大改修されているが、
清正公当時の原型を残す貴重な石造遺構である。

 なお、名称の由来は、『妙法蓮華経』見宝塔品第十一、此経難持の偈文96字にちなむ。
すなわち、末法の世に法華経を受持することの至難を忍び、
信行することの尊さを石段を上ることの苦しさと対比させ、
経文を読誦しつつ上れば自然にのぼれる、と言い伝えられている。



三門

共に昭和20年4月15日の空襲で灰燼に帰し、三門は同52年に再建、仁王尊は同54年に新造された。

 三門は山門とも称されるが、正式には三解脱門の略。
中心伽藍へ入る重要な門であり、三種の解脱(さとり)を求める者だけが通れる。
多くは重層の仁王門とする。例年、盛大に厳修されるお会式の、お逮夜(10月12日夜)の万灯行列が
支障なくくぐれるよう、通常より下層の桁と梁の高さを上げてある。

扁額「長栄山」は第80世金子日威聖人の揮毫になる。
ちなみに「栄」の字は旧字だが、伝統的な慣習で、火伏せのため、冠りを「火」2つでなく「土」2つとしてある。


 仁王尊は、川崎在住の彫刻家で文化勲章受章の円鍔勝三氏が、丹精こめて造り上げた。
雄渾な現代彫刻である。
 なお、旧三門は、慶長13年(1608)に徳川2代将軍秀忠公が五重塔と共に建立。

桃山期の豪壮な門として旧国宝に指定されていた。『新編武蔵風土記稿』は、それ以前の門を、
天文年間(1532−55)第9世日純聖人造立と伝える。
旧扁額「長栄山」は本阿弥光悦筆になり、関東三額の一つであった。

ちなみに秀忠公は、大客殿の正面にあった六足門も建立寄進している(共に戦災で焼失)。
また、旧仁王尊だが、宗論による古川薬師(大田区安養寺)からの勝利尊像で、
上田一族の寄進になり、和銅3年(710)行基菩薩作と伝える古像であったという





五重塔
 関東に4基現存する幕末以前の五重塔のうち、一番古い塔である。

 本塔のそもそもの発願は、のちに徳川2代将軍となる秀忠公の病気平癒祈願にあった。
文禄2年(1593)のこと、15歳の秀忠公が悪性の疱瘡にかかり、
一命も危うい容態におちいってしまった。
そこで、熱心な法華信者であった乳母岡部の局(のち正心院)が、
大奥より池上へ日参し、あつく帰依していた第12世日惺聖人に病気平癒の祈願を託され、
「心願が成就したあかつきには御礼に仏塔を寄進する」との念でひたすら祈った。

その甲斐あって快癒し、将軍となった後、その御礼と、あわせて武運長久を祈り、
慶長12年(1607)に建立〔露盤銘〕、翌13年に上棟式を厳修した〔棟札銘・焼失〕。

 開眼供養の大導師は第14世日詔聖人、大願主が正心院日幸大姉(岡部の局)、
普請奉行は幕臣の青山伯耆守忠俊、棟梁は幕府御大工の鈴木近江守長次、鋳物師は椎名土佐守吉次である。いわば幕府のお声掛かりで建造された当時第一級の塔である。

にもかかわらず、江戸建築が確立する前の桃山期の建立であるため、
特に構造上、過渡期の特色が濃厚である。桃山期の五重塔は全国で1基だけであり、
文化遺産としての価値は極めて高い。

 当初、大堂の右手前、現在の鐘楼堂と対の位置に建てられたが、
直後の慶長19年(1614)の大地震で傾き、元禄15年(1701)、5代将軍綱吉公の命で
現在地へ移築、修復された。その後、数度の修理を経て、平成9〜13年、
日蓮聖人立教開宗七百五十年慶讃記念事業の一つとして、
全解体修理が施され、全容を一新した。

 特徴としては、初層のみを和様(二重平行垂木・十二支彫刻付蟇股など)とし、
二層以上を唐様(扇垂木・高欄付廻縁など)とする点、上層への逓減率が少ない点、
相輪長が短い点、心柱が初層天井の梁上に立つ点、等があげられ、
極めて貴重な塔建築である。なお、平成13年に全面修復が終了した。




日蓮聖人像(説法像)

宗祖七百遠忌記念のとして昭和58年富山県新湊市の黒谷美術株式会社より奉納された。制作は、斯界の権威 北村西望先生です。
「妙見堂」

おまけ・・
東京理科大
in 神楽坂